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松井康之(細川家重臣)と丹後水軍

鳥取城敵前上陸

近未来研究所

 

 

細川の時勢読み

 

 明智光秀が、織田信長を襲う理由は腐るほどある。あり過ぎるほどあって、研究や議論も混乱している。

 しかし、明智の誘いをけった盟友宮津藩細川父子の理由が、ほとんど研究されていない。細川家には、立派な家伝書も残っているが、いまひとつはっきりしない。

 明智が天下人になれなかった決定的な要因が、細川の離反であろう。細川加担せずは、畿内の織田家臣団の動向に大きく影響を与えたにちがいない。

 明治以降の今日までも、足利・室町以来、細川家というこの名流が、幾多の時代の荒波を乗り越えられたのは、何故なのか。興味あるところである。

 細川家の長い歴史の中で、いくつかの決断ポイントがある。

 最初は、15代将軍足利義昭の担ぎ出しである。名前だけのオーナーではあるが、戦国混乱期では、足利将軍という旗印は大きかった。旗は織田家に寄した。

 次は、信長の著しい台頭につれて、細川父子は強力な織田家臣団の一員となった。それは、そのまま衰退する義昭と足利将軍家との決別になった。丹波・丹後方面軍司令官 明智光秀との共闘。しかし、それ以上に多かったのが中国方面軍司令官 秀吉への与力である。忠興の初陣デビュー戦は、秀吉の雑賀攻め(1577年)だった。1580年宮津入城から、1600年の関ヶ原の戦いまでの約20年間。多くは、秀吉と共に戦った。

 三つ目は、秀吉亡き後の大阪城。淀君を中心とする近江官僚派と、北の政所を中心とする尾張武断派との対立。後の徳川300年、肥後54万石の定着を考えるとき、尾張武断派との共闘が、関ヶ原のドラマ「細川家編」を生んだことになる。西と東に別れたこの戦いは、天下分け目の戦いとして、大名家の悲喜こもごものドラマを生んだ。父と息子で戦った「上州真田編」。妻が亭主の尻をひっぱたいた「小藩のアピール 山内編」、関ヶ原戦場での「小早川の決断なき混乱」、「戦線離脱九州へ、敗軍薩摩の敵前中央突破」、凄まじい戦いのドラマの数々ではあった。中でも、前哨戦「ガラシャ細川の犠牲」が、東軍勝利へのインパクトになったことには間違いない。(NHK TV番組「歴史その時」田端泰子 京都橘女子大学教授談)

 歴史はさかのぼる。ガラシャ細川。細川の時勢読みのなかで、二つ目の中にもある。父光秀の逆臣汚名の衝撃の一報。10数日後に届けられた父の首。ガラシャの心の中には、義父幽斎と夫忠興に対する“なぜ父に加担してくれなかったか”という思いがあったであろう。(参照 京都丹後学「細川ガラシャ父娘物語」)

 幽斎と忠興の決断。光秀への加担せず。細川の時勢読みの中で、これは最大の決断だったと思われる。

 そして、中国高松城攻城戦の最中の秀吉に、早々と反明智の姿勢を伝える。“細川、明智に加担せず”は、秀吉にとって何よりの吉報であった。織田家臣団の動きを気にしていた秀吉にとって、この“細川の決断”は、明智との戦いや、織田信長の弔い合戦に勝利を読みとったに違いない。決戦準備拠点、姫路城への“中国大返し”が始まった。高松城から姫路城まで50q、史上有数の大マラソンが行われたことになる。一昼夜、2万5000人の大軍が駆けた。

 丹波・丹後平定を共に戦い、丹後入城を果たしてくれた明智光秀。家族ともども苦難の時代を励まし合いながら、生きてきた明智と細川の関係。

 明智の天下支配を蹴ってでも、秀吉を取った細川父子は、明智以上に秀吉の与力が多く、その実力と異能さを理解、評価していたのではないだろうか。それが、“明智に加担せず”になり、秀吉の時代が来ることを確信したのではないだろうか。細川の時勢読みの最大の成功になった。

 京都で晒しものにされた光秀の首は、宮津に居るガラシャの元へ届けられる。秀吉は、天下取りレースでの“細川の決断”に報いたい感謝の気持ちが、そうさせたのではないだろうか。

 宮津、盛林寺の光秀首塚は、その証であろう。

 

 

細川丹後水軍、毛利水軍を撃退

 

 細川時勢読みの二つ目の理由。その大きなポイントが1580年の丹後宮津城から、1600年まで、筑前福岡入城までの20年間の秀吉との密接な共闘が、その成功の理由であったといえる。

 最初の役割は、羽柴筑前守秀吉が、中国方面軍司令官として鳥取城攻略戦における成功が、細川に対する秀吉の信頼を絶対的なものとしたのである。そして、細川父子もまた、秀吉の才能に、次代を読みとったといえる。

 歴史の時計を速める。「秀吉は滝川攻めを、味方に付けた北畠中将信雄に任せて、柴田と相対峙した。

 かつて鳥取の陣のとき、幽斎は舟手を編成し、松井と有吉を送って海上から秀吉を助けた。秀吉はそれを忘れていず、ずっと従軍していた与一郎(忠興)に言った。

 『宮津の舟手を越前の沿岸に送り、後方を攪乱してもらいたい』と。与一郎は宮津に戻り、舟手を編成して越前に向かった」(文春文庫刊「幽斎玄旨」佐藤雅美著作より)

 賤ヶ岳(1582年)で、織田家臣団のドン柴田勝家との天下取りレースに挑んだ秀吉の、丹後水軍への役割と信頼である。

 丹後は、もともと水の国である。縄文前期、舞鶴市浦入遺跡から、日本最古の海洋型、大型丸木舟が発掘された。朝鮮半島や中国大陸の往来。海部族の繁栄。丹後王国の誕生。帰化人の大量流入と産業の発展。日本の表玄関丹後は、大和に近く、大和朝廷建国を支える。山陰側、奥丹後からはじまった丹後の発展は、四道将軍丹波道主命派遣から800年間、支配者がいない。大和朝廷直接の天領地みたいなものだったのだろうか。物部や蘇我の所領もあったという。800年後、最初の国司は、酒呑童子退治で、一躍名をあげた藤原保昌である。

 平安期を過ぎて室町時代が来るまで、支配者らしきものもない。713年、丹後が地名として登場、別れた丹波は特別の地である。出雲王国が大和に征服されたあと、京に近い丹波は、各政権最強の軍団を配した。

 室町時代。丹後もまた重視され、足利尊氏の重臣一色範光が配された。関東平野北辺出身の内陸軍団では、水軍の値打ちは理解を超えていたかもしれない。山庄太夫に代表されるような豪族や、海賊がこの国では蟠踞(バンキョ)していたのだろう。足利政権の都での権威が落ちて、応仁の乱(1467年)が始まる。丹後もまた荒れている。但馬の山名や、若狭の武田水軍などに、たびたび攻め込まれ、成相山などが戦場になっている。内紛に明け暮れる一色支配300年。居城は弓木(ユミノキ)城。加悦谷あたりが中心的支配地だったと思われる。「湊の支配は、一つには舟運を管轄し、その商品流通を一手に治めることを意味したが、もう一つ水軍の存在を忘れることができない。

 信長が石山本願寺との戦いで、鉄張り軍艦を駆使したことはよく知られているが、秀吉もそうした信長を見ていたので、水軍が戦国の合戦に、いかに大きな役割を果たすかについては、熟知していたと見て間違いない」(三笠書房刊 小和田哲男著「秀吉の全てがわかる本−水軍の巻 知られざるもう一つの軍隊」より、小和田氏は、静岡大学教授〔戦国史研究〕)

 また、秀吉は「天正九年(1581年)、3月28日に、近江長浜町人に対し、折紙(公文書)を与えて、若狭・丹後の海賊から身を守る手立てをしている」(上記同書より抜粋)、丹後や日本海の海賊に精通していたように思われるのである。

 一色義有をだまし討ちにした細川父子は、宮津に築城、丹後12万3500石を領有した。

 「宮津湾には、日本三景の一つと称えられた天の橋立がある。しかし、景勝の地であるだけでなく、日本海交易の重要な港となっている。

 山陰の雄、尼子を滅ぼし日本海に水軍を組織しようとする毛利を封じるためにも重要な場所である。(中略)

 藤孝は宮津城を根拠にして日本海交易の支配地としての水軍を組織、この方面の指揮官として松井佐渡守康之を充てた」(PHP文庫刊浜野卓也著「細川忠興」より)

 松井康之。

 「松井は多田源氏満政の末流。代々城州綴喜郡松井に城を持つ、足利尊氏以来、将軍の近習をつとめていた折り目正しい家筋の出だ。藤孝が将軍義昭を擁して、矢島の里にいたとき、馳せ参じてきて、その後、藤孝に預けられ、すぐに藤孝の家来に直っていた。(文春文庫刊佐藤雅美著「幽斎玄旨」より)

 天正九年(1581年)7月、日本海に臨む鳥取砂丘に、武装した3万余りの大軍が上陸した。松井康之指揮下の丹後水軍の応援を受けた秀吉軍である。

 鳥取砂丘は、現在は県東部、千代川(センダイガワ)河口に東西約16q、南北約2qにわたって広がる日本最大の砂丘である。

 その砂丘に上陸した3万の軍勢は、千代川を遡り、鳥取城下へ進撃を開始したのである。突如現れた秀吉の大軍に、鳥取城下は、大混乱に陥った。鳥取城は、逃げてくる領民と将兵で充満した。

 鳥取城は、天文14年(1545年)に、海抜264mの久松(キュウショウ)山頂に築かれた。その険しい地形から難攻不落の山城といわれていた。因幡・伯耆という山陰統治の拠点である。

 城の背後の山に本陣を置いた秀吉は、四方に柵や堀を巡らし、城内外を遮断した。鳥取城は、孤立無援となったのである。

 城主吉川経家(キッカワツネイエ)は、毛利の援軍、石見国(イシミノクニ−鳥取県西部)の武将である。経家以下1000人の援兵と農民など400人は、秀吉軍相手に奮戦したが餓死はあとを絶たない。(講談社刊「週刊日本の街道 8 山陰道」6月18日号を参考にした)

 秀吉は以前から、このことを想定して手を回していた。

 「ときは8月、やがて収穫の秋を迎える。秀吉側も、鳥取城側も、年貢を徴収もとより百姓の手許にも米は残る。その百姓の手許に残った余米を金にあかせて買い集める。ただし、秀吉の家来が買い集めると、何事かと百姓も鳥取城内の者もいぶかる。そこで商人を送り、算盤を弾いてのことであるかのように思わせて買い集める。

 商人は、新たに秀吉の領地になった但州にもいるが、但州にはない。丹後には宮津という良港があって、舟を持ち、海上を盛んに往来して、大がかりな商いに励んでいる商人が多い。

(中略)

 藤孝は、宮津の宮津屋甚兵衛、宮津屋喜右衛門といった大どころをはじめとする商人を呼んだ。儲かる話である。『手伝わせていただきましょう』商人は二つ返事で応じ、鳥取に出掛けていった。

 秀吉は、白銀の花咲く生野という里を持っている。鳥取在番の将は、『金はたっぷりある。金に糸目をつけなくていい。そのほうどもにも十分儲けさせる』と商人にいい、金にあかせて余米を買い集めさせた。

 百姓にとって相場よりずっと高値で買ってもらえるのだ。すすんで余米を売った。

 鳥取城二郡の百姓もである。そしてあろうことか、ことによっては籠城することになるかもしれない鳥取城の者までが、高値につられて蔵米を売った。買い占めは順調に進み、因州一円の余米はことごとくといっていいほどなくなった。(中略)

 秀吉の舟手派遣要請には、そのうちの松井・有吉の軍におおよそ1500の兵をつけて送ることにした。

 宮津には海賊、いわば海を舞台にする土豪が少なくない。海賊か商人か区別のつかない怪しげな者もいる。藤孝は彼らを呼び集めて舟手を編成させた。

 1500の松井・有吉勢は、数艘の大船と60有余艘の警備船に乗り、乗れない者は歩いて鳥取に向かった。(中略)

 鳥取城の守将吉川経家も気付くのが遅い。秀吉が鳥取城を包囲してはじめて、兵糧米が不足しているのに気付いた。慌てて兵糧米の搬入を毛利に申し送った。

 毛利は25艘の大船からなる水軍を編成し、うち5艘に兵糧米を満載し、城に入れようと鳥取城への河口に押し寄せた。

 松井らは河口をしっかり固めていて、慣れない舟戦(フナイクサ)というのに、目覚ましく働き、あっさり撃退した。米は一粒一穀たりとも入れなかった。さらには、そのあと出雲、伯耆の浦々にまで出向き、毛利の諸城を攻めて焼き払った。

 秀吉はのちに、“鳥取飢え(カツエ)殺し”といって自慢した。鳥取城は三木城や八上城と同様、いや以上に悲惨な飢餓地獄に陥った。

 吉川経家らは自らの命と引き換えに、兵や百姓の助命を願い、秀吉は信長に伺って聞き届け、包囲してから5ヶ月後の10月29日に城は落ちた。

 毛利は応援に駆けつける格好をして見せたものの、藤孝ら畿内の諸将が押し出してくるのを恐れ、動かずじまいで終わった。藤孝は鳥取に向かわずにすみ、やがて松井が帰って来た。

 松井は土産話や手柄話をしたあと、真顔に戻って言った。

『筑前守殿は、今や2万の兵を動かすことができます。たいそう力をつけられました』

 秀吉は、鳥取城を包囲し、海上を固める一方、押し寄せてくるかもしれない毛利に備えて、堀を割り、柵をつけ、堀を張り巡らせ、築地をきずき、強固な防御戦を構築した。守る用意をがっちり固めて城を兵糧攻めにした。

 それらの秀吉の行(てだて−作戦)を、話に聞きながら感じたのだが、力をつけただけではない、秀吉には並の武将にない独特の才がある。

 もちろん信長にはきらめく才、誰にも真似ることのできない天与の独特の才がある。

 秀吉はそうではない。

 誰でも思いつくことが、実践するとなると大がかりすぎ、時間も金もかかるので面倒になったり、尻込みしたりし、結局は止めてしまうことを朝飯でも喰うかのようにやってのけるという才がある。

 あらためて、秀吉という人物の才を認識させられ、敬意を表す意味も含めて、松井に国重の刀を贈られたのを謝す使者を秀吉の許に送った」

 上記のこの文は、佐藤雅美さん著作の文春文庫刊「幽斎玄旨」から、長々と引用させてもらった。著者の労作に感謝したい。丹後を研究する者にとって、細川丹後水軍の誕生から活躍まで、これほど活写してくれている著作は少ない。また、「細川の時勢読み」の歴史の中で、明智を蹴って、秀吉を先物買いした根本にある細川の秀吉の評価にまで言及してくれている。

 秀吉天下取りと共闘していく。細川水軍は幸運としか言いようがない。宮津入城の20年間が、ただ“丹後水軍”としての存在を証明できた。細川が去り、京極が来たころには天下も統一されて水軍が必要なくなり、日本海を中心とする商船海運の時代へ入っていった。徳川300年の統治時代は、外洋型は勿論、大型船の所有を禁じられ、水軍は潰滅した。その代表例が綾部2万石に、九鬼家が移封されたことである。熊野水軍として、名を上げた織田軍団の強力水軍は、徳川時代は丹波に上げられ、まさに“陸に上がった河童(カッパ)”になった。

 今一つ、丹後水軍の頭領、松井康之の存在である。慣れないにわか水軍を指揮して、秀吉軍の要求に応え、なおかつそれを上回る戦果を上げたことは大きい。

 「秀吉はこの先、他人の懐に手を突っ込むようにして、諸家の家来を取り込んでしまう。徳川家康の家来石川伯耆守数正、水野和泉守忠重、薩摩の伊集院右衛門大夫入道幸侃などが取り込まれた家来で、とうに松井胃助(康之)にも目を付けていて、『松井に三分の一を』といった」(文春文庫刊 佐藤雅美著「幽斎玄旨」より)

 忠興は、松井康之に独立しようなどという野心がないと見ている。快く秀吉の申し出を了承した。従来の1万3000石に、安堵状の7000石を付け加えて、2万石になった。久美浜に居城も決まり、丹後水軍を本格的に育てることになった。

 朝鮮役では、丹後水軍も参加したが、苦戦。松井康之は、嫡子を亡くした。家康に預けていた二男を帰してもらっている。家康とも懇意にしているのである。

 丹後水軍の20年間に、丹後が持ち得た最大の海のヒーロー、それが松井康之である。

 

 

江戸期300年、丹後港町の繁栄

 

 宮津藩は、細川が筑前福岡へ移封されたあと、京極高知が入った。関ヶ原の徳川への忠節が認められたのである。若狭小浜藩には、兄の源高次が、大津城立て籠もりの功で入っている。兄の妻は淀君の妹。姉は秀吉の側室、松の丸である。

 高知の時代、丹後水軍が組織されたのかどうかはわからない。松井康之の久美浜は、幕府の天領として、代官所が置かれている。高知は、病床で生前分与。高広、宮津7万8000石。高三、田辺3万5000石。高通、峰山1万石。幕府に認められたこの分割が幕末まで続いた。現在の宮津城(1625年)は、この高広によって完成を見た。

 宮津は2代目高国が、御乱行で断絶。永井、阿部、奥平、青山と続くが国替えだけでなく、トラブルも多かった。(京都丹後学「青山お殿様物語」参照)

 1758年、浜松より本庄富之助が入り、幕末まで続いた。田辺は、途中で牧野親茂(1668年)に変わり江戸期を終わる。峰山京極家だけが、幕末まで続いた。京極家は江戸で、当時、火盗改め長谷川平蔵の良き理解者であったという。丹後ちりめんの殖産にも努力した。

 水軍の時代ではない徳川300年は、国内海運経済が発展した。丹後は良港にめぐまれ、宮津は本庄家が新浜を整備するなど、港が賑わった。田辺は竹屋町などを中心に繁栄した。また、由良川の水運による税収など、水運管理による繁栄を享受した。

 幕末は、坂本龍馬の海援隊などとも田辺藩は取引を行ったと、中学校の歴史教科書に出ていたことを思い出す。

 丹後商船の活躍は、宮津市広報誌「みやづ」平成13年10月号の「北前船」特集記事に、よく書かれている。日本中を駆け巡ったのであろう。特に丹後由良湊の船頭衆の活躍はめざましい。宮津「三上家」、田辺「油屋久兵ヱ衛」など豪商たちの出現。宮津・舞鶴市の現在の街並みの姿は、この繁栄がつくり上げたといえる。由良湊は、千石船の補給基地「千軒長者」の名残りである。現在でも屋号の呼称が通用している。金比羅神社には千石船の絵馬も。青森県岩木山には、安寿姫にまつわる神社がある。陸奥湾に、丹後由良の舟が入ると、そのたたりで海が荒れるという伝説があると、柳田民俗学者の説を、太宰治が著書「津軽」の中に引用している。

 また、海運隆盛と同時に、由良川の水運も栄えた。丹波越え山陰街道の宿場として、由良川は綾部、福知山の発展にも寄与した。鉄船出現までの、明治の初期まで、この繁栄は続き、そして終焉を迎える。戦前からの軍港舞鶴市の出現と日本海の護りがつづく。

 これからのアジアの経済成長が再び、丹後を21世紀の水の王国にしてくれるのであろうか。

付記

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